Vol.128 「SNS」について
コンサバ系女性向けファッション情報誌が運営する、とあるネットメディアが
「急増するSNS疲れの原因と、
疲弊しない上手なSNSとの付き合い方」
…みたいな主旨の記事を配信しておりました。
とりあえずは、ここに提言されている
「原因」と「付き合い方」ってヤツをかいつまんで、以下に記しておきましょう。
「原因」は、
・所属と愛の欲求(=自分もコミュニティの一員である、他人に嫌われたくない…と感じる欲求)
・承認欲求(=他人から認められたい、尊敬されたい…と感じる欲求)
・自己実現の欲求(=自分の理想とする人になりたい…と感じる欲求)
…という3つの「欲求」がSNSによって肥大化し、その過剰な主観性が必要以上にマインドを翻弄してしまう…から。
ならば、そのSNSとの「付き合い方」は、
・他人と比較しない
・自分軸を意識する
……こと。
つまり、SNSは自己満足でかまわない…いや、むしろレスや「いいね」の数にこだわりすぎるあまり“作品”を“つくりこむ”のではなく、
「自分が発信したいことだけを
“まんま”、ワガママに投稿すべき」
…ということです。
まったくもって、そのとおりだと思いました。グーの音(ね)も出ない、完ペキなマニュアルだと言えましょう。こんなにも当たり前のことを、なぜ多くのヒトたちが当たり前のように実践できないのか…ぼくは不思議でなりません。
そもそもSNS、ソーシャルネットワーキングサービスとは、あくまで「自分のために在るもの」で、「外に向けて配信する」という特性を考慮したうえでの最低限のコンプライアンスさえ守りさえすれば、
「他人がどう見ようと言おうと
知ったこっちゃない」
…といった前提のもとで付き合うのが本来…ではないのでしょうか。
自分のセレブでエキサイティングな毎日を自慢したいなら存分に自慢すればいい。ラーメンが趣味ならラーメンのブツ撮り写真だけをズラリ並べればいい。写真が趣味ならキレイに撮った風景写真を…100も並べばそれだけでも圧巻な
「俺ラーメン図鑑」や「My写真集」が完成する。それらに「いいね」を押してくれる共感者が一人でも十人でもいたら嬉しさも倍増──そういう世界ではないのでしょうか?
ぼくが懇意にしている、とある女性は「自分が行ったお気に入りの喫茶店の凝ったモノクロ写真(※珈琲のみカラーに変換)を、トイレ情報付き」で気まぐれな頻度で投稿しています。時には半年近くも更新されない期間があったりもします。
地味ではあり、フォロワーも30人程度ですが、じつに好感度の高い“写真集”であり、これらを見たら実際に「今度行ってみようかな…」みたいな好奇心さえも掻き立ててくださる…。
ぼくが利用しているSNSはFacebookとInstagramの二つで、フォロワーはどちらもあたたかい眼でぼくを見見守ってくれている
“味方”オンリー──自分でつくった料理、外食した美味しい料理、野球、旅先での非日常な風景…ほか、物の見事に統一感はゼロで、SNSに精通した“上級者”からは「テーマもビジュアルのテイストもバラバラじゃないですか! これじゃあフォロワー数増えませんよ」と、よく指摘されます。
でも、それでぼくは全然かまわないのです。先鋭的な問題提起を、たとえばTwitterのような荒野へと放つつもりなんぞ、さらさらありません。ぼくのことを褒めてくれるだけのヒトたちのみが集まったヌクヌクとしたぬるま湯な環境で、ちょっとだけ他所行き(よそゆき)の自分を見てもらうだけでぼくは十分に満足なのですから…。
そう鑑みると、当たり前のこと、ここで起きたハプニングをSNSで発信することが禁止行為とされている“ハプバー”は、もしかしたらインターネットに毒されまくった現代人にとって、最後の楽園
…なのかもしれません。