Vol.148 ディスコ・カフェバー…そしてカクテル(中編)
『マハラジャ』がつくった「新しいディスコ文化」とは、誤解を恐れずに表現すると
「差別の文化」
…であります。
店側がファッションを基準に客を選ぶドレスコードに、モデルや芸能人などのフリーパス制…。ちょうどこのころ、
マルイの12回ローンで購入した一丁羅の『NICOLE(ニコル)』のスーツでキメていったのに、マハラジャで入店拒否をされ、その横でTシャツとジーンズ姿の木梨憲武さんがスッとフリーパスで店内に入っていた光景は今でも忘れることができません。
「お客さま、その服装はちょっと…」
…と、入店の是非の命運を握る黒服に向けられる畏敬のまなざし。運良くお眼鏡にかない、「通行」を許可されてもVIPルーム
という、さらなる選別のふるいが立ちはだかってくる…。
マハラジャがあった麻布十番は当時、六本木駅から徒歩で10分以上もかかる場所にありました。
その不便さが皮肉にも
「ディスコに高級車で乗りつける男」
「タクシーで乗りつける男」
「とぼとぼ歩いてくる男」
…という貧富の差を生み、BMWの3シリーズですらギャル(※当時は若い女性のことをすべてひっくるめて「ギャル」と称していた)からは「六本木カローラ」と馬鹿にされる、偏ったステイタス感覚がここから根付いていったのです。
日々の夕食を吉野家の牛丼でしのぎながら、5年ローンで中古の外車を買う「なんちゃってリッチマン」が、上から下までハウスマヌカンにコーディネイトしてもらったブランドスーツをぎこちなく着こなし、おどおどしながら街を流す時代でもありました。当たり前の話、バブル景気だからといって皆がその恩恵を受けていたわけではないのです。
もちろん、ぼくもバブル時代は「おどおどしながら街を流す」、
ボンビー(※「貧乏」の意。この時期は、なんでもかんでも逆さまにする「ギョーカイ用語」ってヤツが流行っておりました)側の人間だったので、今でもバブルを「あのころは良かったなぁ…」と懐かしむオッサンやオバハンを見たら、つい蹴り倒してやりたくなりますw。
さらに、ディスコへクルマで乗り付ける「モテ仕様」の定番化に伴い、ディスコは「もっと不便な場所」へとテリトリーを広げていきます。これが1988~1991年に起こった『MZA有明』『サイカ』『ゴールド』などで知られる
「ウォーターフロントブーム」へとつながっていくのです。
ちなみに、ディスコブームの代名詞『ジュリアナ東京』がオープンしたのは、バブル崩壊の年とされる1991年。メディアでは「バブルの象徴」として取り上げられがちですが、それは正確ではありません。お立ち台をはじめとするマハラジャがつくりあげたディスコの概念を曲解し、ただデフォルメしただけの
「バブルの徒花」――。それがジュリアナにおける、あの乱痴気騒ぎの正体だったのかもしれません。
(※後編へ続く)