Vol.318 赤プリ伝説
たま〜に語りたくなる
Gジィさんの古き良き想い出シリーズ!
親愛なる“ハプバー”マニアの皆さまは
「赤プリ」
…なるワードをお耳にしたことはありますか?
「赤プリ」こと赤坂プリンスホテルとは、1955年から2011年まで、東京の一等地である千代田区紀尾井町にあった、西武グループに属する都内型高級リゾートホテルのこと。
中高年世代なら、「赤プリ」といえば
「バブルの代名詞」
…として、いまだ脳内にインプリンティングされている
御仁も多いハズ…。
とりあえずは真っ盛りだったころに生まれた、数々の
「赤プリ伝説」
…のいくつかを、とくに熱量が半端じゃなかったクリスマスに
限定して、今日は抜粋してみましょう。
「イブの夜は宿泊カップルの営みのせいで震度3~5クラスの揺れを観測した」
「男たちは赤プリ一泊(約5万円)、レストラン(約3万円)・バーもしくはルームサービスで二次会(約2万円)、プレゼント(約3万~5万円)の計15万円セットで、ようやくイッパツの××(『チョメチョメ』と読む)にありつけた」
「クリスマス時期の宿泊予約は9月末に埋まってしまい、クリスマス明けにチェックアウトした男が、そのままあやふやな見通しで翌年分を予約していた」
「23日、24日、25日の3日間をリザーブして、3人の女性と股をかける剛の者もいた」
「イブの日に赤プリ内で2部屋リザーブし、そこに宿泊する2人の女性の間を行き来するツワモノもいた」
「朝10時はチェックアウトする男が押し寄せ、フロント前が大名行列状態だった」
「その横で待つ女性群が持っている小さな紙袋は90%以上が水色だった(ティファニーのオープンハート入り。シルバーかゴールドかで軽い階級差が生じてもいた。銀座三越のティファニーも12月は1時間待ちもザラだったという)」
今のMZ世代と呼ばれるヤングたちに聞かせたら、
「マユツバモノの武勇伝」
…として一笑に付されるものばかりなのかもしれません。しかし、これはどれも間違いなく(※「震度3~5クラスの揺れを観測した」を除けばw)ほぼ真実なんであります!
そして、15万円の予算が捻出できない者や、準備不足で赤プリのクリスマスをキープし損なった者は、
「プリンス」がついたら
もうなんでもええわ
…と、急場しのぎで「東京プリンスホテル」や「池袋サンシャインプリンスホテル」や「新宿プリンスホテル」へと流れていった(※秩父にある「長瀞プリンスホテル」まで流れ着いた者も実在した。ちなみにそれはGジィさんですw)。
つまりプリンスブランドは、当時の若者にとって、それくらいの確固たるステイタスを誇っていたのです。
そんな「赤プリ躍進」の大きなきっかけは、まだバブル前夜だった80年代前半にまで遡ります。1983年、丹下健三氏設計の「タワー新館」が鳴り物入りでオープン。
「高級ホテル=厳か」
…といった従来のイメージを打ち破る、すべての部屋が角部屋となる、ギザギザの近未来的でスクエアな、ひたすら「モダン」に徹したデザインが、あのころのアッパーな空気にマッチしていたのでしょう。
営業開始当初は、小金を持った高感度人間らの
常宿として、口コミで
「イケてる感」
…が伝わり、バブルに突入したあたりからその噂が市井の民に
まで広がり、一気にブレイク。そこから騒乱と喧噪が始まることとなるわけです。
さて。バブル景気を経て、その約20年後にひっそりと営業を終えた赤プリ(※閉館時は「グランドプリンスホテル赤坂」と改称されていました)であるが、現在はオフィス、商業スペース、ホテル、住居が一体となった某複合型施設へと姿を変えています。
「シンボリックからファジーに」
こういった
「セレブの在り方の違い」
…も一つの時代の流れ…なんですかね? 合掌!
(※冒頭のイメージ写真は赤坂プリンスホテルではありません)